« 2008年1月 | トップページ

2008年5月

V2なるか、常葉学園菊川 センバツ連覇は過去2校だけ

Tokari

 記念大会になる第80回大会の優勝候補に常葉学園菊川(静岡)を推す声が高い。昨年の選抜大会を制し、夏の選手権大会はベスト4に進出。そして秋の神宮大会に優勝して安定感がある。今大会もこのチームの動向が中心になって展開されそうなムードが濃くなってきている。

 選抜大会の連続優勝は意外に少ない。常葉学園菊川にとっては気になる歴史の歩みと言えるだろう。第6、7回大会の第一神港商(兵庫)と第53、 54大会のPL学園(大阪)の2年連続が2度あるだけ。第一神港商は第6回大会が西垣徳雄、第7回は岸本正治と、主力が異なる2投手で連覇。PL学園も前 年が左腕の西川佳明投手、2年目は榎田健一郎投手がチームを支えている。今年の常葉学園菊川は、昨年も優勝に貢献したエースの戸狩聡希が健在なだけに26 年ぶりの2連覇に大きな期待が集まる。

Sakura_2

 春の大会で連続優勝する難しさは新チーム誕生から日が浅いことにあるだろう。未完成の域を出ることのないままに大会を迎える。十分に鍛えた夏とは異なり、未熟さや粗さが露わになる。無名のチームが突如として進出してくるのも理解できる背景がある。

 ちなみに夏の選手権大会は中京商(愛知)の3連覇が最多で、2年連続は3年前の駒大苫小牧(北海道)を含んで5校。春の頂点に立ち、その勢いで夏 をも優勝をさらう春夏連覇は、横浜(神奈川)があの松坂大輔投手(レッドソックス)を擁して達成してから10年目になる。さあ、常葉学園菊川を倒せるのは どこだろう。
  (この項、校名は当時の名称) 

【写真】昨年の決勝戦で先発し大垣日大を相手に力投する常葉学園菊川・戸狩=2007年4月3日(左)
満開の桜の下で凱旋行進。母校で大勢の菊川市民らに迎えられる選抜初優勝の常葉学園菊川高校のナイン=2007年4月4日

| | コメント (10) | トラックバック (0)

消えた鳴り物 大震災被災地での開催

Bb

 戦後、大会開催の大ピンチがあった。1995年1月17日に発生した阪神大震災は、甲 子園が被災地にあるため「やってくれ」「こんなときに野球でもあるまい」と開催そのものに議論が噴出した。多くの犠牲者があり、家を失って生活もままなら ない住民感情を無視することはできなかった。

 日本高校野球連盟、主催新聞社も意見の交換を重ねるなど対処に苦慮した。被災者の反感を買わないこと、復興作業の妨げにならぬ行動などを約束事に して第67回大会の開催が決断されている。応援バスの兵庫県下への乗り入れも禁止した。「出場校への注意事項」と題された冊子には鳴り物の応援は取りや め。生徒一人にメガホンは1個だけで、応援団のリーダーには統制用の笛が3個までなど細かく規制した。

 ともすれば華美に走り、ぜいたくな印象が強くなるばかりの高校野球にブレーキがかかる。派手さより質素であることの大切さを再確認できるチャンス と解釈した。多くの不幸を背負った地元の人たちに、野球をさせてもらえることへの感謝を伝えることも忘れてはならないものだった。

Cc

 鳴り物が消えた応援席はどうだったか。これまでは休むことを知らなかった「音」がなくなった。主力は人間の声になっていた。肉声がこれほどの迫力を生み、厚みがあるとは予測できなかった。新しい発見が次々と出てきたことに、開催決行の意義を見つけることができた。

 ちなみに、この大会には福留孝介(PL学園―中日―カブス)藤本敦士(育英―阪神)森野将彦(東海大相模―中日)らが出場。どんな思いでプレーしたのだろうか。

【写真】甲子園球場のある西宮市内でも多くの家屋が倒壊し多数の犠牲者が出た。行方不明者などの捜索をする自衛隊員=1995年1月18日、西宮市北口町(右)
スタンドにひびが入るなどの被害を受けた甲子園球場では、補修工事が急ピッチで進められた=1995年3月22日、兵庫県西宮市

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「泣くな別所、センバツの花」 左腕折りながら続投

Bs0030__199906241625_m

 戦争へ突入、という暗雲が立ち込めた1941年の第18回大会が戦前最後の大会になった。ここから5年間、センバツは消えてしまう。

 その大会で観衆の胸を打つ敢闘精神を発揮したのが滝川中の別所昭(後に毅彦と改名)投手だった。後世に語り継がれるプレーの発端は準々決勝、岐阜 商戦の九回表のことだ。1点を追う滝川中はこの回一死一、二塁。青田昇の三ゴロが一塁手への悪送球を誘い、一塁走者の別所はベースコーチの「ストップ」を 振り切って三塁ベースを回った。

 この好機で一気に逆転を狙った別所の心境も理解できる。右翼からの好返球があって本塁上のクロスプレーで悲劇が起こった。180㌢、75㌔、転倒 した別所の巨体の下で左腕が骨折。同点ではあったが、逆転への走塁は大きな代償を伴った。発熱があり、寒けが襲ってくるのに別所は続投を訴え出ている。現 在なら大会本部は出場続行を許さないだろう。

 白い布で左腕をつった。グラブを使わず、捕手からの返球はゴロにする。大会屈指の剛球投手がアンダースローで投げるのが精いっぱい。交代する投手 が不在で、悲壮感が漂う姿にスタンドは異様なムードになったそうだ。それでも延長十二回途中まで投げ、投手経験のない捕手の小林章良が救援。十四回でサヨ ナラ負けした。

 同情と称賛を集めた別所の奮闘に「泣くな別所、センバツの花」と報じられた。戦争目前に咲いた花は、戦後プロに転じて歴代5位の通算310勝と咲 き誇った。滝川中ばかりが脚光を浴びたのではなく、岐阜商にも光が当たっている。一度もバント攻撃をせず、別所の不運をおもんばかった精神に拍手を送る人 も多かった。                            (この項、校名は当時の名称)

【写真】左腕骨折の悪夢から55年後の秋、巨人―中日のOB戦でマウンドに立つ別所毅彦氏=1996年11月、ナゴヤ球場

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご褒美は夏の「海外見学」 選手権3連覇は“犠牲”に

As0105__200003072002_m

今でこそ海外への遠征は珍しくないが、昭和初期では夢のような話だった。1931年(昭和6年)の第8回大会で広島商が優勝し、夏休みの米国遠征が実現し た。4年前から優勝校へ「海外見学」と称した旅行がプレゼントされていたもので、これが大会出場校の大きな励みになっていた。
   
 広島商の鶴岡一人遊撃手も強い願望を秘めていた。中京商(現中京大中京)との決勝戦、2―0とリードしていたが九回に二死満塁のピンチを迎えた。次打者 の遊ゴロで二塁のベースカバーに入った保田直次郎二塁手が「さあ、ここじゃ」と叫び、絶好のトスをした鶴岡は「アメリカじゃ」と一声発したという。

 この鶴岡は後にプロ野球で活躍。南海ホークスの名監督として「親分」の異名で選手から慕われた。その若かりしころの思い出を自著「野球ひとすじ」 で懐かしんでいる。「アメリカ遠征の出発前に、広島在住の外国人家庭でテーブルマナーなどを習った。また、坊主頭だと囚人に間違われるとかで、すそ刈りの 調髪をした。うれしかった」

 心弾む海外旅行だったが広島商の周辺は騒がしかった。2年連続優勝している選手権大会を無視するのか。「3連覇を狙え」の声も強くなる。それでも米国へのあこがれは捨てがたいものだった。夏の地方大会は留守部隊で戦い敗退した。

 妙な巡り合わせになるようだが、第8回大会の決勝で広島商に敗れた中京商は、この夏から選手権大会史上初めての3連覇の偉業を達成する。また、春 の優勝校への「海外見学」は、文部省から出された野球統制訓令の趣旨を受け、この大会で取りやめになっている。主催者からのご褒美が夏の大会に影を落とし ているのが興味深い。

【写真】1965年のパ・ リーグ優勝を決め、記者会見する南海の鶴岡一人監督。68年まで南海一筋に指揮をとり続け、監督として史上最多の通算1773勝を記録した=65年9月26日、大阪球場

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1人5升のコメ持参 食料難の下、大会復活

As0711__200411111434_m

 戦争での中断で、5年ぶりにセンバツが復活したのは1947年だった。26校が参加し た第19大会の開会式は6万人の観衆でスタンドが埋まっていた。早春の風に揺れるセンターポールの日章旗。「あの日の丸をご覧ください」のあいさつに多く の人が胸を熱くさせていたという。

 平和が帰ってきても、国民の暮らしは苦しかった。食糧難は当然のように球児にもついて回った。戦う前に食糧の調達に選手も関係者も腐心した。主催 新聞社が報じている往時の回顧には細かく記されている。徳島商の選手は地元の警察で米穀証明書をもらい1人5升(9㍑)の米を持参。これが10日分という 計算だった。食べ盛りが1日5合で済ませるのはつらかっただろう。

 どの出場校も徳島商と似たような状況であったらしい。せっかく故郷の米を持ってきても駅頭での取締りが難関。大会本部は大阪の警察署に了解を得た り、大阪の中央市場に交渉して魚や野菜の確保に奔走した。当時の大会に参加した選手はいずれも学生服にリュックサックを背負っている写真が残されている。 生活感があふれ、何となく切ない。

 とても笑えない当時のエピソードをひとつ。大会に入って勝つごとに米の差し入れが増えた。そのころは代用食のサツマイモは当たり前で「食べ慣れて いない物を食べたら腹を壊す」と差し入れの米を取り上げたチームもあったらしい。うそのような本当の話だから、これにも胸が詰まる。

 どこまで戦えるかより、どこまで食糧が持ちこたえるか。そんな時代が戦後しばらくは高校野球にもあった。飽食の時代で食の苦労がなくなった今、往時の制限された困苦の日々を、少しでも理解に努めるべきではないか。

【写真】終戦直後の東京・新橋駅前の闇市。深刻な食糧難の時代、放出物資や隠匿物資を求めて復員兵やもんぺ姿の女性でにぎわった=1945年11月

| | コメント (0) | トラックバック (1)

球史に名刻んだ「ビッグツー」  沢村栄治と王貞治

As0319__200206251545_m

 伝説の人、沢村栄治投手  (京都商)が初めて甲子園に現れたのは1933年の第10回大会だった。

 後年、巨人に入り戦前ではプロ屈指の速球投手として鳴らした。この大会ではベスト8で敗退するが、楠本保(明石中)吉田正男(中京商)と並び「ビッグスリー」と高い評価を得ていた。

 この3人が投手部門で優秀選手賞に選出され、沢村は翌年の第11回大会でも同じ賞を獲得している。優勝には届かなかったが名投手の片りんは示していた。

 春の優勝投手でプロの第一人者になったのは王貞治(早実)で、沢村と並び彼の名も後世語り継がれるだろう。第29回大会も「ビッグスリー」が話題になった。王に加え小松敏宏(高知商)清沢忠彦(岐阜商)はいずれも左腕で、大会前から注目を集めていた。

Pr2007__200602161435_m_2  王はノーワインドアップ投法という極めて珍しい投球ぶり。米球界でもヤンキースのラーセン投手だけと伝えられていた。王が左の中指と人さし指を裂いての奮闘で握った紫紺の大旗は、大会史上初めて箱根の山を超えたのだった。

 これほどの大活躍をしながら、巨人に入団してからは打者として大成する。「1本足打法」「フラミンゴ」と表現される特異なフォームで本塁打を量 産。通算868本を記録している。投げても打っても独自の世界を作り上げていた。ソフトバンクの監督として今季がラストイヤーと位置付けた。「早実の王」 から半世紀が過ぎている。

 (この項、校名は当時の名称)

【写真】巨人軍時代の沢村栄治投手の投球フォーム。1937年、甲子園で(上)早実のマウンドを死守したサウスポー王貞治投手。1957年夏の甲子園で(下)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「21世紀」と「希望」 2つの特別枠を新設

Bs0632__200104022035_l

 21世紀になって初めての春、第73回大会に新たな改革も始まった。「21世紀枠」という選出枠が設けられた。これまでの実力優先で決まる選考に加え、あとひと息の力不足で甲子園への道を阻まれていたチームに「夢」と「希望」を与える新機軸である。

 無条件ではない。前年の秋季都道府県大会でベスト8への進出。これが力量判定の合格ラインで、まずここまで進んでこないと道は開けない。そして第 2の関門は野球部独自の活動や、学校を取り巻く環境への対応。それらが地域などにいい影響を及ぼしていることなども推薦の主因になる。困難な状況に立ち向 かう姿。ともすれば忘れられがちな学業との両立にも光が当てられる。

 昨年まで21世紀枠での出場は2校だったが、記念の80回大会で今年は安房(千葉)成章(愛知)華陵(山口)の3校。今年も新風を吹き込むことが できるかどうか。これまで7年間で送り込まれた14校で初戦に勝利を収めたのは4校だけ。特筆すべきは宜野座(沖縄)の奮闘でベスト4にまで進出した。そ れ以外に2勝したチームがないのはちょっと寂しい。

 「希望枠」という特別枠の第2弾がスタートしたのは2003年の第75回大会だった。惜しくも一般選考から漏れた補欠1位校が投手を含めた守備力 を判定される。これまで旭川実(北海道)秋田商(秋田)三本松(香川)一関学院(岩手)大垣日大(岐阜)と続き、今大会は一関学院が2年ぶり2度目の希望 枠に入った。

 この顔触れを分析すると、打力に優れる地域からの出場は困難になるだろう。守りの野球を推進することに異論はないが、守備力は数字に表れない部分も多い。6年目を迎えた新枠に見切りをつける動きがあるという。

【写真】宜野座が旋風! 73回大会に21世紀枠で出場した宜野座は、浪速(大阪)を延長11回の末破ってベスト4進出を決め喜びを爆発させた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

初陣、侮るなかれ! 数々の栄光刻む

Bs0750__200404042146_m

 今大会の初出場は9校を数える。このうち長野日大(長野)興譲館(岡山)安房(千葉)華陵(山口)は夏の甲子園にも出場していない。やっと念願かなって晴れ舞台に登場してくることになった。この喜びは大きいだろう。

 この4校を勇気づける面白いデータがある。昨春まで初出場チームが4大会連続で決勝戦に進出している。済美(愛媛)神村学園(鹿児島)清峰(長崎)大垣日大(岐阜)と続く。4校の中で清峰だけが前年夏に甲子園を経験しており、あとは文字通り初出場での快挙だった。

 初陣で話題を集めた出来事は多い。第60回大会で宇和島東(愛媛)を優勝に導いた上甲正典監督は、その16年後に創部3年目の済美を頂点に押し上げている。この手腕に、高校球界では屈指の指導者として高い評価を受けている。

 春の大会は新チームになって日が浅い。投、攻、守が高いレベルに達していないから、初めての甲子園でも投手の力量次第で浮上のチャンスが生まれてくる。

 大会史を彩る優勝校のヒーローを眺めれば、160㌢「小さな大投手」の光沢毅投手(飯田長姫=長野)がいる。逆に190㌢の大型右腕だった仲根正 弘(日大桜丘=東京)。後に西武で活躍した渡辺智男(伊野商=高知)や、ゴルフ界に転じた尾崎将司(海南、現海部=徳島)も忘れられない一人だろう。初出 場校を軽く見てはならない。

【写真】76回大会で済美を初出場初優勝に導いた上甲正典監督。16年前にはやはり初陣の宇和島東を優勝させていた(2004年4月4日)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今春は「蕾」で歩く 入場行進曲の推移

Bs0601__200703230945_m

 出場選手が一堂に会する開会式は、スタンドの観衆にも心躍るひとときになる。力強い入場を支えるのが大会ごとに替わる行進曲といえるだろう。今大会は2007年のレコード大賞を獲得した「蕾」に決まった。母への思慕が歌い込まれ、多くのファンに支持されているという。

 戦前、1934年(第11回大会)から4年連続、「陽は舞いおどる甲子園」で知られる選抜大会歌が登場した。80回の歴史の中で同じ曲が起用されたのはこの時期だけだった。それ以降は時代を映した、
誰もが知る歌の多用が目立ってきた。

 戦時色が強くなった38年からは「愛国行進曲」「大陸行進曲」「紀元二千六百年奉祝歌」「国民進撃歌」と国民を鼓舞するメロディーが続いた。そして第2次世界大戦に突入し、選抜大会も5年間の中止という不幸を強いられる。

 大会の復活した後はラジオの連続放送劇で人気の主題歌「鐘の鳴る丘」。シベリアに抑留されていた兵士が伝えた「異国の丘」は望郷の思いに生きる戦 友への応援歌でもあった。選手はどんな思いで甲子園の土を踏み締めただろうか…。行進曲にしては切なさが募るものであっただろう。

 やがて「黄色いりぼん」「セントルイスブルース」など洋楽が加わり、60年代には「こんにちは赤ちゃん」「幸せなら手をたたこう」と若年層から年配者までが好んだヒット曲が流れた。

 今大会は「蕾」でも異存はないが、93年に新しい大会歌として登場した「今ありて」でもよかったのではないか。作詞した阿久悠さんは昨年亡くなり、その追悼と感謝を込めて行進曲に推す人はいなかったのだろうか。

【写真】第79回大会の開会式で入場行進する大阪桐蔭ら各校の選手

| | コメント (0) | トラックバック (0)

センバツの鼓動 第80回記念大会

Bs0108__200801251854_m_2 出場する36校が選出されたのは1月25日だった。これが過ぎてから公には選抜大会の 話題はプツンと切れてしまう。2月は沈黙の期間になり、3月14日に組み合わせ抽選会。そして22日の開幕を迎え、13日間の大会に突入する。本番までの 歩みは実にゆっくりしたものである。

 「春はセンバツから」と形容され、このキャッチフレーズが親しまれてから久しい。高校野球の開催が、厳しい冬を乗り越えた季節をリードしていくという響きがある。すべてのものが生気にあふれ、躍動感が生じる予兆に満ちる。

 春の大会には悲壮感は乏しい。新しい2、3年生のみのチームで、敗退しても夏が残っているという救いがある。ひとつの負けも許されない、ぎりぎり の戦いでないのが見るものの心を和らげている。でも、センバツの経験が夏への財産となることを考えれば、苦労の量の多さは貴重だ。

 2月は鍛錬期になる。寒冷地の代表は温暖な場所に移りキャンプになろう。3月に入れば練習試合が解禁となって、もうこのころは総仕上げの段階。故障者のないように細心の注意をしながらの日々になる。

 大会が始まっても天候は気ままに変化する。冷え込んだり、暖かだったりの三寒四温。菜種梅雨に泣かされるシーズンもままある。幾つかの花曇りをくぐり抜け、桜前線の推移を楽しみにしていると甲子園にも本格的な春がやってくる。

 大会の終盤には球場周辺の桜が満開になり「春はセンバツから」のイメージが現実となって展開される。

【写真】選抜出場が決まり、帽子を投げて喜ぶ昨春優勝の常葉学園菊川ナイン=1月25日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年1月 | トップページ