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2008年1月

甲子園に魔物はいない

Manin  いつごろからの言い伝えなのか確かでない。優位に立っていた局面が一転して劣勢になると「甲子園には魔物がすむ」と表現されてきた。目に見えないものの力が勝負に加わってきて、それが魔物のせいだという解釈がされている。
 そんな妖怪じみたものが甲子園にいるわけがない。猫はいる。昔は満員の阪神―巨人戦でひょいとグラウンドに飛び出し、フェンス沿いを疾走して観客の喝采を浴びていた。今春の選抜大会では一塁ベース近くにイタチらしきものが現れ、大騒ぎされてすぐに退散したのを記憶している。

 ▽敵は我にあり

 では魔物の正体は何なのか? それは第89回大会の出場を決め、開幕を心待ちにする球児の心の中に潜んでいる。無心、無欲、平常心などと、普段通りプレーするための心得に多くの言葉が用意されてきた。それらを理解しながらも、どこかにすきが生じるのは、勝負事に関わる人間の宿命だろう。まして高校生なのだから心の揺れは小さくない。
 勝ちを急ぎすぎての失敗。ほぼ握りかけた勝利を逃すのはこのケースが最も多い。リードを守ろうとすれば硬さが出る。必死に追いすがってくる相手の気迫に押されてしまう。それに油断やおごりなど、敵を軽視した安心感も取り返しのつかない事態につながる。
 だから、耐えるところは耐えて勝負の決着を急がない。勝つことは大いなる苦しみを伴うことを知れば、「魔物」の出番はないだろう。野球は「ツーアウトから」で、これは球児の将来にもつながるフレーズになる。

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多い大会への心得

 甲子園への切符を手に入れて、あこがれの舞台に立つ―。相手はまだ決まらないし、新たな重圧もなく今が晴れがましさと喜びに包まれたいい日々だろう。
Kyoufuu_2  やがて甲子園での練習があり、組み合わせが決まると本番への心構えが違ってくる。大会が始まると試合以外に約束事がびっしりある。試合前のインタビューは当然のように組み込まれ、先の試合が長引くと待ち時間が増える。落ち着かない精神的な負担は重い。
 戦う前の雑事や気苦労をどう軽減してやるか、これも指導者の手腕の一つ。懇意にしている監督は甲子園の心得として普段の訓練を大切にしている。学校での練習試合では室内で待機させ、ぎりぎりの刻限でグラウンドに出させる。甲子園でも室内の待機所から、急に明るいグラウンドに飛び出す。この感覚を学ばせるのだという。

 ▽無情の風か神風か

 勝負に微妙な影を落とすのが甲子園に吹く風である。スコアボードの旗がぴくりとも動かない無風状態もあるが、ここの特徴は午後からの強い風で右翼から左翼に吹き流れる。これが甲子園の浜風で、余程のことがない限り方向に変化はない。この風が幸運を呼ぶ神風になったり、無情の風となって選手を泣かせてしまう。
 この風も午前中と夕刻の時間帯に止まるときがあるのは凪(なぎ)のせいである。それ以外は間違いなく吹いていて、要警戒なのは4試合開催の日は第2、3試合になる傾向が強い。備えあれば憂いなし、と言っても、慣れない大舞台で風の強弱まで計算するのは大変だろう。失敗しても、これは災難とぐらいに考えてはいかがか…。

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監督の心はチームの心

 どんなに時代が移ろうとも、高校野球では監督の占める力は大きい。その指導には全幅の信頼が置かれ、選手は好みの色に染め上げられていく。だから、監督の言動には敏感に反応するし、推進する野球にも異議を挟まない。
Watanabe  こんな話がある。プロ野球で首位打者になったこともある男が、高校生の息子に打撃指導をした。バットの素振りで欠陥を指摘すると「監督から注意されたことはない」と聞く耳を持たなかったそうだ。何の疑いもなく信じ込んでいる姿が、こんなエピソードにも表れる。
 監督も必死である。昔なら猛練習で鍛えに鍛えたものだが、最近は柔軟路線になった。選手の自主性を唱い、はやる気持ちをセーブする。チーム作りの苦心談を聞くと、もう昔流は通用しづらいとも言う。「監督の心はチームの心」として、お互いの融和が優先され始めた。

 ▽甲子園は古里

 監督の幾多の苦労が報われるのは、やはり甲子園への出場になる。「古里に来た思いがする」「母親の懐だ」などという感激の声になるのだから、有り難みは軽くない。後は無欲でと第三者は考えるが、この辺りの心の置きどころが大切になる。
 「普段通りの野球をやろう」と選手に伝えても、監督の思考法に変化があるとベンチに伝染する。これはよくあるケースで、こうなると戸惑いが生じて勝てない。それに甲子園を意識しての新たな装いが野球に出ても失敗する。甲子園は鏡のようなもので、いつもの姿しか映さない。監督の有り様は難義で奥深い。

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ベンチ入り18人へ

 あこがれの甲子園で、ベンチ入りが許されるのは18選手。4年前の第85回大会から、それまでの 16人に2名が増員された。登録選手は18人以内と定められた上に、選手の変更は大会前日までで打ち切られ、それ以降は認められない。
Nyuzyoukousin  そのほか大会前や大会中、投手の関節機能検査で肩やひじに重大な障害が発生していると大会での投球が禁止される決まりがある。この場合、投手以外での出場は可能となっている。健康管理が大きなテーマになり、それに伴ってベンチ入りの選手が増えてきた。
 ただ、この18人がすべて試合に関わるメンバーとは言い切れないケースもある。普段の生活態度、野球にかける純粋な取り組みなど、チームの模範生であったことで選ばれた選手が存在する。高校野球ならではの制限枠の活用と言える。

 ▽滞在費7500円也

 第1回大会から13年間は監督と11選手に旅費、滞在補助費が支給された。ベンチにはそれ以外の選手も参加OKというアバウトさ。これでは開催地に近い学校や、金銭に恵まれたチームが有利となる不公平さがあり、第14回大会からベンチには14選手以内と限定された。この制度が大会中断の戦争を挟んで49年も続いていた。第60回大会以降に15人、16人とベンチ入り選手が増えていったのは、試合数の増加に伴う疲労度を考慮した措置だった。
 ちなみに主催者から支給される現在の滞在費は1校20人分で旅費は別に補助費が1人1日で7500円。食べ盛りの選手ばかりで、そこに練習を手伝う部員も駆け付ける。勝てば勝つほど出場校の負担は重くなる。

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終戦記念日の祈り

Syuusenkinenbi  8月15日の終戦記念日。今年も甲子園に祈りのときがやって来る。正午に重い響きのサイレンが流れて黙とうが始まり、すべての動きが静止する。
 夏の大会でこの日を迎えると、いつも考えさせられる。戦火に散った人たちの無念さを思うだけでなく、存分に野球に打ち込める少年たちとともに平和であることへの感謝。そして豊かな時代といわれる中で、実は本当の豊かさを失いつつあるのではないか、という反省も…。受験戦争をはじめ、今は人に勝つことだけを優先させる競争社会になっている。そればかりが先行して思いやりや優しさ、いたわりといった他人に向ける心がうせる貧しさ。これが豊かといえるかどうか。

 ▽先人の苦難を糧に

 高校野球にも苦難の日々を切り開いた先人の力がある。戦後の社会の復興のシンボルとして暗い時代を照らした。再び野球を志すことができる喜びを白球に託してきた。 戦争は知らなくても、その不幸な歴史を学ぶことはできる。忘れがちになっている周囲への感謝を、平穏さにかまけて甘え過ぎてはいまいかという自戒もいる。本当はとても幸運な日常を当たり前と解釈しているかもしれない。数え上げればきりがないほど、次々とさらなる思いが募る。
 甲子園での勝ち負けは、そう気に病むものではない。ちょっとした油断や思わぬつまずきもある。それに緊張しすぎたり、動揺したり、難敵に遭ってやっつけられたりするのが人間で、むしろ人間らしいではないか。終戦記念日を思い起こしたら、一時の悔いは小さい、小さい傷である。

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女性がベンチに初登場

Takagi3_3  1995年の第77回大会には、1月17日の阪神淡路大震災の傷跡が残っていた。復興への立ち上がりに加え、戦後50度目の大会という節目にふさわしく、初めて甲子園のベンチに女性が座った。
 柳川(福岡)の高木功美子野球部長が責任教師として登場した。少年たちと男性の指導者しか立てなかった舞台にやって来た。94年の秋に就任した高木部長は剣道4段の体育教師。野球の心得はさっぱりで、スコアブックの付け方から習ったという。
 話題を集めた「時の人」はギブスで固めた左足を松葉づえでかばいながら甲子園へ。選手との友好を計る卓球でアキレスけんを切ってしまい、無理を押しての参加だった。この大会で2勝した柳川には「勝利の女神」の力添えが大きかったのかもしれない。

 ▽女子マネも参戦

 これを契機にして翌年の第78回大会には女子マネジャーが記録員としてのベンチ入りが実現した。それまでも女性野球部長、女生徒の記録員が地方大会に参戦するのは珍しくなくなっていた。だから、この新制度も時代の流れに沿ったもので反対の声はなかった。ただ服装面で「ユニホームを着てもらっては」「スカートはまずくないか…」などと少し戸惑いがあったらしい。
 もう今はグラウンドに見える女生徒の姿に何の違和感もない。それまで改革に踏み切れなかったのはなぜ?という疑問がわいてくる。みんなで楽しい甲子園、に向かってきた。

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ベスト8の分割日程

Bs0259__200508031720_l  準々決勝の4試合を2日間で2試合ずつの開催―。夏の甲子園では2004年の第86回大会で実現した。それまでは運が悪いと大会終盤に4日間の連戦を強いられていたことを考えれば一歩前進だろう。それでもこの改革案が完全なものであるわけがない。準々決勝の2日目に振り当てられると3日間続けての試合になる。歴然とした不公平さが残ってしまう。
 昔からベスト8が対決する準々決勝は「最も面白い日」とされ、野球通は逃さないとまでささやかれてきた。大会も大詰めに差しかかり、勝ち残った8校が頂点の見える位置にいる。そして余力を振り絞るチームの姿にファンは魅了されてきた。はっきりのぞく疲労感に耐えてのプレーが日本人に美化され、称賛されていた。

 ▽理想は完全休養日を

 理想を追うなら準決勝を前に英気を養う1日の休息時間がほしい。地方大会では選手の健康管理と公平な日程作りに配慮し、休養日を設けることが多い。なぜ甲子園では実施できないのか?は長年の疑問として続いてきた。
 15日間の会期に1日の休日を加えておくと、天候不順や台風などで日程のやりくりが難しくなるケースが発生する。甲子園を本拠地にする阪神タイガースが8月に少しでも興業したいこともある。夏休みを活用したいのは当然で、今年の8月も2日までヤクルト戦を組み、月末は28日から抑えている。
 公平な日程と健康管理という難問を抱えて、まだもう一歩進んだ英断が見えてこない。「最も面白い日」の直後に休ませる「思いやりの日」を置いて、さあ準決勝とはいかないか。

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物議醸す松井の5敬遠

Matsuijpg  第74回大会(1992年)の話題は、強打者との勝負を避け続けた一件に尽きた。5打席とも歩かされたのは、ヤンキースの主力に成長している松井秀喜だった。
 2回戦の明徳義塾(高知)―星稜(石川)は、1年夏から4番で猛威を振るう星稜・松井のバットが注目されていた。明徳義塾の馬渕史郎監督が立てた必勝作戦は「松井と勝負しない」であり、これは報道陣にも漏らしていた。敵の力をそぐことも戦術の一つだから、奇抜な計画ではないだろう。
 ファンの反感を買ったのは、その徹底ぶりだった。4打席目は七回二死走者なしの場面でも明徳義塾ベンチの指示は敬遠だった。そして九回二死三塁で松井が一塁に歩くと、スタンドからメガホンが投げ込まれ試合が中断する騒ぎになった。

 ▽ファンの欲求不満

 明徳義塾が3―2で勝った。社会事件のような扱いに発展したのは勝負が決着した後のことだ。スタンドは異様な雰囲気になり、明徳義塾の選手には「帰れ、帰れ」の怒鳴り声が飛ぶ…。急きょ、牧野直隆・高野連会長が会見を開き「無走者のときは勝負をしてほしかった」と、暗に明徳義塾を批判するニュアンスで語った。
 当時、この状況をネット裏で観戦していた私は「ファンには松井の強打を見たかった欲求不満がある。そんな心情的なものを優先して考えると試合は成り立たない」と書いた。何よりもルール違反でもないのに、勝者を責める声が高まることに反発したかった。
 翌日から甲子園の記者席にいた私に「おまえは頭がおかしい」「明徳の回し者だろう」と言いたい放題の電話があった。えらい迷惑な話しだが、明徳義塾は次の3回戦は広島工に8―0で敗れている。悪者扱いされた影響があったことは間違いない。バットを振らなくても、松井には「敬遠は強打者の勲章」という評価が加わった。高校野球らしさとは、という難問にはいつも苦労する。

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変化球の全盛期

 甲子園に金属バットが登場したのは第56回大会で、もう33年も前のことになる。このときに好投手の一群も出現する。土屋正勝(銚子商―中日)定岡正二(鹿児島実―巨人)工藤一彦(土浦日大―阪神)。この大型トリオに永川英植(横浜―ヤクルト)を加えて「四天王」と呼ばれた。金属バットの猛威に押され投手ご難の時代が始まるころ、本格派が話題を集めている。
 これ以降も時折、パワーを示す投手もいたが、変化球を多投するタイプが圧倒的に多くなった。特に顕著なのはスライダーを会得することが流行のようになった。カウントを取る球であり、決め球にでも通用する便利な球種になってきた。昨今の高校野球ではスライダーを投げない投手を発見することの方が難しい。

 ▽多投に懸念も

Tanaka  変化球への依存は勝負に結び付ける方法ではあっても、高校生の将来性という見地に立てば不安はある。変化球の多投による肩、ひじ、関節への負担。どこかで、誰かがセーブさせる策を講じないと悲劇を生むのではないか。
 昨年、甲子園を沸かせた斎藤祐樹(早実―早大)田中将大(駒大苫小牧―楽天)の両投手の勝負球は切れ味鋭いスライダーだった。松坂大輔(横浜―レッドソックス)も大きく流れ落ちるスライダーが今も大きな武器になっている。同じ球種であっても速くて落差があることが要求されている。プロの影響はフォークボール、ナックル、カットボール…と際限がなく及んでくる。
 速球と「懸河のドロップ」と表現された縦割れのカーブ。この二本立てで奮闘したかつての投手が懐かしい。

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KKコンビでPL神話

Kiyo_2  清原和博、桑田真澄(いずれもPL学園)は1年生の夏から5季連続で甲子園に姿を現した。4番打者とエース、このKKコンビが推進力になった。夏は第65回大会から優勝、準優勝、また優勝。春は準優勝とベスト4。ここまでくると彼ら2人は「甲子園の申し子」と表現してもおかしくない。
 今もPL人気は衰えがない。地元大阪のチームであることと、強いイメージがファンに焼き付いていて離れない。PL学園が甲子園にやって来ることだけで、遠くなった日々が帰ってくるような錯覚が生まれるらしい。

 ▽瀬戸際の戦い

 清原の強打は脅威だった。第66回大会の享栄(愛知)戦では3本塁打。翌年の第67回大会では5ホーマーを放ち、春夏の大会で通算13本塁打を記録した。プロに投じてから打撃のタイトルに縁はないが、高校時代に限っては間違いなく第一人者だろう。
Kuwata112  桑田は冷静なタイプだった。ピンチになっても取り乱すことがなかった。いつも、あの独特の大きいカーブを駆使してマウンドを死守していた。あれが桑田の生命線であることを、新天地パイレーツでの活躍が鮮やかに映し出している。そして清原は左ひざの故障で再起に暗雲が立ち込めたままだ。
 追われるように巨人を去った2人は、現役としても残り少ない39歳。最後の最後の瀬戸際の戦いになっている。

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曲がった右ひじ

 沖縄水産のマウンドを死守する大野倫投手の右腕は、くの字に曲がったままだった。多くの人がその痛々しい姿を直視するのにつらさを感じた。1991年の第73回大会の決勝戦だった。
Ohno  本来なら、その幸運を喜ぶはずの舞台だったが、大野の右ひじの痛みは限界に達していた。これほど悲痛な思いを抱えて、頂点に立つ試合に臨んだ投手は聞いたことがない。大阪桐蔭に16安打を浴び、13失点。沖縄水産が2年連続の準優勝で終わったことより、痛みに耐えたエースの奮闘がファンの心を震わせた。
 大野は沖縄大会からひじの不調を訴えていた。甲子園では6試合すべてに完投したが、そのうち5試合は二けた安打を喫している。3回戦から4日間の連投は、痛みを癒やす時も与えられなかった。対戦した打者は延べ240人、投球数773。この数字とともに大野の投手生命は終わっている。 

 ▽複数投手の育成を

 日本高野連が「複数投手の育成」を強く訴えたのは、大野の悲劇を繰り返すなという警鐘だった。無理を承知で投げ続ける姿を美化した風潮を断ち、少年投手の将来を見据えた呼び掛けになった。大会前の故障のチェックも義務付けて、健康体での大会参加を奨励している。
 それでも能力の高い投手を複数そろえることは難しい。だから酷使を避ける必要性は分かっていても、安定性のあるエースに頼ってしまう。失敗の許されない一本勝負の夏は、なおさら有力な投手にかけての戦いになる。理想論と現実。そこにはいつも隔たりがある。

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金属バットで新しい波

 アルミ合金製バットが初めて甲子園で使用されたのは1974年の第56回大会だった。この大会では出場34校がすべて使ったが、使用選手の数はまちまちだった。まだ金属バットに慣れておらず、従来の木製バットを握る打者の方が多かった。
 それでも金属バットの特性が知られ始めると、このバットを最大限に活用する対応が講じられた。タイミングさえ合えば詰まっていても飛ぶ。腕力さえあれば飛距離が出るという「魔法のつえ」である。バットメーカーもより反発力の強いバットの製作に乗り出して話題を集めた。

 ▽攻めだるまの本領

Tsuta  この金属バットをフルに使い切ったのが池田(徳島)だった。上半身の筋力トレーニングに力を注ぎ、攻撃野球に徹した。全員がバットを振り切る、パワーを前面に押し出した新しい高校野球の誕生。蔦文也監督が「攻めだるま」と呼ばれ、金属バット時代の旗頭になっていた。
 この間にも打力優位の傾向は鮮明になり、甲子園での本塁打数も増えていった。金属バットが登場してから11年目の第66回大会では開催14日間すべてに本塁打が記録され、大会トータル47本。清原和博(PL学園=大阪、現オリックス)は享栄(愛知)戦で1試合3本塁打を放った。
 力ずくの野球がもてはやされ、「1点を取り、1点を守る野球がなくなった」とさえささやかれた時代も、再びバントを重視した高校野球の姿に戻りつつある。力と小技、要はバランスが強さの源なのだろう。

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元祖「怪童」は中西

Nakanisi1  今の流行は癒やし系のようで、高校野球の人気者が「ハンカチ王子」と呼ばれたりする。かつては太田幸司(三沢)の「幸ちゃん」という優しい愛称もあったが、王子様扱いまでのものはなかった。
 昔のニックネームは力強い。中西太三塁手(高松一)が「怪童」と呼ばれ、高い評価をされたのは第33回大会。岡山東(現岡山東商)との初戦で左中間を破るランニング本塁打。続く福島商戦でも、今度は右中間へ二試合連続のランニング本塁打を放った。コロコロした体形だったが、かなりの俊足。今も本人の自慢話に登場するから、本当に速かったようだ。
 この2本の本塁打とは別に、準々決勝の芦屋戦では痛烈なライナーの一撃に捕球した二塁手が後方に転倒したという話もある。「怪童」の命名者は「学生野球の父」と慕われた飛田穂洲さんと伝えられ、中西太さんも「新聞社の偉い人が付けてくれた」と気に入っている。

 ▽2代目は剛球の尾崎

 初代の「怪童」が誕生してから、10年後に2代目が登場した。浪商(現大体大浪商高)の尾崎行雄投手で、戦後の高校野球では「最も速い球を投げていた」と評価する人が多い。
 2年生だった第43回大会で優勝投手。ライバル法政二の柴田勲(後に巨人)に投げ勝った。浪商を中退して東映に入団。17歳で20勝を記録し新人王を獲得、怪童の面目を示している。甲子園で活躍したときは175㌢、74㌔。大きくはないが、厚い胸としっかりした腰回りで力勝負の速球を投じた。

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悲運が春夏連覇へ

 春、夏の甲子園大会を連続で優勝した果報なチームは5校ある。作新学院(栃木)が1962年の第44回大会で達成したのが史上初めてで、中京商(現中京大中京高=愛知)箕島(和歌山)PL学園(大阪)横浜(神奈川)と続く。
 高校球界の頂点に立ち続けて1年を過ごす偉業の裏には、やはりさまざまなドラマが存在する。作新学院の連覇は突然襲われた悲運から始まった。開幕日に主戦投手の八木沢荘六が赤痢であることが発覚。チーム全員の感染有無を検査するため作新学院の試合が2日後に延期される緊急措置が取られた。
 エース不在の作新学院は、代役の加藤斌がシュートを武器に力投した。準決勝、決勝を連続完封で乗り切り、躍り出たヒーローとして注目を浴びた。その後、加藤は中日に入団したが、自動車事故で死去。20歳という若さで亡くなったのは、甲子園の夏で幸運を使い果たしていたからだろうか…。

 ▽松坂の本領

Matuzaka  第61回大会の箕島には、名勝負として語り草になっている激戦が織り込まれている。3回戦で星稜(石川)と延長十八回に及ぶ競り合いになった。後攻の箕島は延長十二回と十六回にリードを許しながら、いずれも二死からの本塁打で同点。粘りに粘って星稜を突き放している。
 中京商は加藤英夫投手が春夏の計10試合を一人で投げ抜き、横浜の松坂大輔投手も決勝戦は春、夏ともシャットアウト勝ち。夏は無安打無得点試合を達成するなど大物ぶりを発揮した。優秀な投手が連覇には不可欠の要素なのだが、第69回大会のPL学園は野村弘、橋本清、岩崎充宏と質の高い3投手を有効に使い切った。羨ましいばかりの投手力だった。

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魅惑のエース

Oota  エースとして昨年の第88回大会を制した斎藤佑樹投手(早実)の人気は早大に進んでも衰えない。彼の登板日には観客が大幅に増え、甲子園のヒーローはそのまま神宮に引き継がれている。
 ブルーの小さいタオルで顔の汗をぬぐう。こんな仕草が「ハンカチ王子」と表現され、もてはやされた。昨夏の大会早々から騒がれていたのではない。勝ち進むことによって注目度が高くなり、決勝戦の再試合という劇的な背景も斎藤人気に拍車をかけた。
 それに頂点を争った駒大苫小牧には大会3連覇への挑戦があった。今、楽天で活躍する田中将大投手が男っぽいタイプなのに比べ、優しさを漂わす斎藤は好対照。この組み合わせの妙も、日本人好みの構図であった。それにしても、女子学生だけでなく年配の女性にまで広がるファン層は珍しい現象だろう。

 ▽元祖アイドル

 社会的な話題となったのは第51回大会の太田幸司投手(三沢)だった。こちらも松山商との決勝戦が延長十八回で引き分けての再試合。青森からやって来た新鋭チームが古豪に挑むけなげさが、判官びいきの甲子園にマッチした。
 白面の貴公子の感があった太田には、白系ロシア人の血が流れている神秘性も、アイドルとしての要素だったようだ。甲子園のネット際に殺到した、女学生の津波のような群れは忘れられない。夏の大会に限れば、第59回大会の坂本佳一(東邦)は「バンビ」と呼ばれ、日焼けした細い首が印象的。第62回大会の荒木大輔(早実)も人気を博した。この2投手はどちらも1年生で奮闘し、全国のファンがしびれたらしい。実力のないアイドルは誕生しない。

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一徹さで戦後をリード

Saeki1  日本高校野球連盟の故佐伯達夫会長は、戦後も間もなくから全国大会の再開に取り組み、以後リーダーとしてらつ腕を振るってきた。
 高校野球を守り抜く姿勢に徹していた。まだドラフト制度のない時代。札束攻勢で選手の獲得に乗り出すプロ側に真っ向から対決した。プロとの交渉を禁じ、これに違反した学校は出場停止処分という厳罰を設けた。これが長く語り継がれた「佐伯通達」だった。
 1961年の第43回大会に出場した高田(大分)の投手がプロから金銭を受け取っていたことが発覚。高田は1年間の出場を停止された。この処分に際し、国会から参考人として呼び出された席上、「教育者でもないのに教育の一環である高校野球を指導している?」と聞かれたのに対し「教師だけが教育者ではない。教室だけが教育の場ではない」と鋭く反論したという。

 ▽「佐伯天皇」の素顔

 持論を曲げない頑固さ。ルール違反には連帯責任も科してきた。厳しすぎるという批判もあったが、あの厳格さがなかったら高校野球の進路に大きな誤りが生じていたかもしれない。
 「佐伯天皇」は辛辣だった。甲子園で勝者になってもマナーが悪いと「嫌なら帰ってもらって結構」と遠慮がなかった。ゲームに締まりがないと、ボールボーイに直筆のメモを握らせ審判のもとに走らせた。「ちゃんとやりなはれ」と大阪弁で尻をたたいた。
 1980年没。「汚れなき白球を一心不乱に追い続けること」が高校野球の心だと説き続けた。健在ならば今の特待生制度の混乱を、どう思い、対処するだろうか。

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3連覇にドラマ絡む

Ttanaka  まさか、と感じたことは失礼だったのだろうか。駒大苫小牧が大会3連覇に挑戦したのが、昨年の第88回大会だった。もう実力に地域差はなくなってはいる。それでも北海道のチームが中京商(現中京大中京高)の偉業に73年ぶりで並ぼうとする現実が目の前にある。戸惑いが生じた。
 駒大苫小牧―早実の決勝戦は延長十五回で譲らず再試合となる。どちらかに渡るはずだった深紅の大旗は、どちらの手にも渡らなかった。大記録を懸けた対決が持ち越しとなるドラマは、高校野球をひいきにする神様の粋なはからいだったのかもしれない。

 ▽砂糖水で奮い立つ

 再試合で駒大苫小牧の夢は敗れてしまうが、中京商の3連覇にも球史に残る名勝負が絡んでいる。3年連続をねらった第19回大会の準決勝、中京商は延長二十五回で明石中に1―0でサヨナラ勝ちした。
 午後1時10分に始まった試合は4時間55分も要した。いつもなら夕食の時間帯だが、空腹への備えはない。明石中の選手はやかんに入れた砂糖水を飲み気力を奮い立たせたと伝えられている。中京商のエース吉田正男は336球を投じて完投。その夜は疲労で食が進まなかったのに、翌日の決勝戦でも1人で投げきる鉄腕ぶりだった。
 甲子園をうならせた語り草の誕生には、今も昔も必死の奮闘が潜んでいる。

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終戦後の変革期

 日本高校野球連盟の脇村春夫会長は湘南(神奈川)の三塁手として第31回大会に優勝。初出場で栄冠を手にしたチーム仲間には、野球キャスターとして活躍中の佐々木信也さんがいる。終戦から4年目で何もかもが乏しく、新たな歩みが始まろうとする変革期だった。
 学生改革によって中等学校は高等学校になった。現行の6・3・3制に踏み出したのは湘南が制覇した前年のことだった。5年もあった甲子園への道が3年に短縮され、より険しいものに変化した。

 ▽出場に米2升

Waki1  このころ最大の苦しみは食糧難だった。甲子園に近い大学寮に多くの出場校が合宿し、共同炊事で日々を過ごしたという。脇村会長が活躍した時代も、1人米2升を背負ってやって来た。同じ大会に出場して「怪童」と騒がれた中西太さん(高松一)も「勝ち進み過ぎると米不足が心配になった」と述懐している。
 甲子園球場内の大広間も宿舎代わり使われた。ここの食事は評判が良かったそうで「夜はスタンドに出て星を見た」と佐々木さんは話している。随分ロマンチックな甲子園だったらしい。
 現在の選手たちはホテル暮らしが多くなった。食糧もたっぷりで何の心配もいらない。物質面では豊かになったが、心の豊かさはどうなのか?とこちらの方が気になる。 このところ脇村会長はクローズアップされる特待生問題の処理に苦慮している。現役時代は変革期に出会い、今は高校野球の曲がり角に直面するのも不思議な縁…

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強くなった沖縄勢

 今年も沖縄大会が始まると、広島に住む安仁屋宗八さん(62)は落ち着かない。1962年の第44回大会、沖縄(現沖縄尚学)のエースとして甲子園にやって来た。もう半世紀前に届きそうな遠い日をはっきり覚えている。
 「あのころは甲子園なんて知らない。初めてツタに囲まれた球場の外壁の高さを見てびっくり。中に入るとスタンドの広さにまた驚いた。入場行進の予行演習でみんなの足がそろわず注意されましてね」。
 初陣は初戦で敗退した。その四年前、第40回の記念大会に首里が招待されている。沖縄のチームは遠来のお客さん扱いで、劣勢の展開にも観衆の拍手が集中した。同情と激励の声援だった。

 ▽本土に負けるな
 
Sai_2  安仁屋さんは広島と阪神での18シーズンで119勝。沖縄の高校球界も長い時間をかけて力を蓄えてきていた。沖縄水産が1990年と91年に2年連続で準優勝。この奮闘は全国の一流レベルに到達した実力を告げるものだった。
 この沖縄水産を率いた栽弘義監督は、5月に逝かれた。中京大で指導者になる研さんを積み「本土に追いつき、追い越せ」を目標に置いていた。それはもう現実のものになっている。
 沖縄の少年たちは高い身体能力を持つ。1年を通じて野球に取り組める環境にも恵まれている。宜野座、八重山商工など新勢力ものし上がってきた。安仁屋さんが「夢」と表現する甲子園に登場するのはどのチームだろう。

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92年の歴史を刻む

 Saitou 第89回全国高校野球選手権大会(8月8日から15日間)への出場を目指す地方大会の日程が決まった。16日から始まる沖縄大会を皮切りに、日本列島に球児の心意気がほとばしる。
 夏の大会が産声を上げたのは1915年(大正4年)で、92年前のことになる。まだ野球そのものが普及していなかったため大衆へのPRが必要で、主催新聞社は「…野球とは18人の人々が9人ずつ敵と味方に別れ、球(ボール)や打棒(バット)などという道具を使って互いに攻め合う遊戯である」と説明しているのも面白い。

 ▽斎藤ブームに続くか

 太平洋戦争での大会中断。終戦の翌年には745校が参加して若人の祭典がよみがえった。それ以降は平和のありがたさを身をもって知り、野球に熱中できる少年たちの活躍が全国のファンを沸かせてきた。
 昨年の第88回大会は駒大苫小牧の3連覇を阻んだ早実の優勝で盛り上がった。特に斎藤投手の冷静なプレートさばき、ハンカチで汗をぬぐうポーズまでも好感度として受け止められた。高校野球は健在なり、を印象づけた斎藤ブームが今夏も引き継がれるか。
 この大会は春と異なり、勝ち続けないと前進できない。故牧野直隆・高野連会長が「地方大会はもう一つの甲子園」と力説したのも、1勝の尊さを伝えるものだった。頂点に立つチームだけが負けを知らず、他のどの高校も2度負けることはない。厳しい勝負だけに、夏は格別の思いが募る。

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